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■偽マッチ退治と直木政之介


 直木政之介は嘉永4年(1851)1月14日兵庫の旧家神田家の長男として生まれた。 幼名を神田由太郎。16歳のとき、望まれて米穀仲買を業とする直木家の養子となった。 名を直木政之介と改める。

 当初は直木家も裕福であったが、政之介20歳のとき、米価の大暴落の余波を受けて、 直木家は破産、家屋敷・田畑・蔵・船・諸道具等すべてを売却処分しても4万7千円の借財が残ったという。

 その後、政之介は大阪、神戸等で写真屋の弟子、呉服屋の番頭、蒲鉾屋、西洋料理屋等転々とし苦労していたが、 明治10年西南戦争が勃発すると米穀取扱いの利益に注目し、 同12年に神戸新町場で米穀の小売商を始めて直木家の再興に乗り出した。 同13年に米屋の総代、15年に湊川東組町会議員、19年に神戸区会議員、21年に兵庫県会議員、 22年に神戸市会議員になっているから、人望があったことが窺われる。

 政之介は明治20年(1887)9月、神戸市荒田町でマッチ製造業を始めた、商号は奨拡社(SHOKOSHA)。 時に政之介37歳であった。

 自らのサイン M.Naoki を入れた黒ベタ白抜きの「象ベスト」の商標は、 当時黄紙に赤と黒印刷のラベルが多い中で、一際斬新なデザインと認められ大評判となった。 明治29年には三井物産と特約を結び、日本人の手で初めて直輸出をした。 それ以前のマッチ輸出は全て華僑等外国人の仲介で行われていたからである。 輸出マッチの進展とともに、生産設備を拡張させ、明治32年には年産16万マッチトンを生産し、 同35年の記録では4工場を有している。

 明治40年には(政之介57歳の時)直木燐寸社、本多義知の明治社と三井物産とで合同し日本燐寸製造(株)を設立した。 業界シェア約25%であった。政之介は75歳で日本燐寸製造(株)の社長を退いた。

 政之介は今で言うところのビジュアルマーチャンダイジングとかマーケティングの天才であった。 以下にその事例を3点あげる。

  1. 明治12年米の小売商を始めたが、金がない。 そこで、砂やおが屑を入れた俵を積みあげて米の在庫を多く見せた。 また政之介・孝子夫婦は二人で店先で餅を搗いた、結婚して2年目のことである。 米屋のつく餅なら安かろうと皆が買いに来た。
  2. 明治23年「象ベスト」の売れ行きが好調であった為、この象ベストの類似品が数多く出回った。 そこで政之介は、新聞懸賞広告と同時に浅草十二階(凌雲閣)に 「わがベストマッチに類似せる商標を発見ご通知の方に金100円を贈呈する」 と大垂幕を吊り下げて世間の注目を集めた。 これは逆に「象ベスト」がまねされるくらい優秀なマッチだと宣伝したことになる。 明治24年には、この類似商標に抗議して、時の農商務相・陸奥宗光に直訴して類似商標の登録を抹消させた。 「大臣に面会するには紹介状は不要、三人曳きの人力車で官邸に乗り入れるに限る」と云って実行した結果である。
  3. 「象ベスト」のデザインは最初は黒1色であったが、 その後カラーバリエーションを増やし2色3色刷分けたものもある。 その色の組み合せは全部で56種類あったというから次々着色限定で目先を変え、 いつも鮮度のよいマッチとして販売していったのである。

 昭和13年(1938)正月5日120人の孫子に囲まれて、政之介88歳の米寿を盛大に祝った。 この年12月2日この創意工夫奮闘の人生の幕は閉じた。 法名 松光院顯空義照居士 神戸市地下鉄海岸線「中央市場前駅」で降りてすぐの、阿弥陀寺にねむる。

参考文献
 『マッチ時報』日本マッチラテラル・佐藤正光


黒田 康敬
2008年08月25日
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