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■パクリマッチラベルと福澤諭吉 その1


 「マッチも出ていたろうけれども、マッチも何も知りはせぬからストーヴで吸い付けた」 (『福翁自伝』)。 万延元年咸臨丸でサンフランシスコに着いて、ホテルの宴会場で煙草を喫む場面である。 この一文により、この時、福澤先生はマッチを知らなかったことが分る。

 当時の着火道具は火打石で火花を作り硫黄を先端に塗った附け木に火を移す方法がとられていた。 日本でマッチが作られたのは、スウェーデンで工業化されてから約20年後の明治8年のこと。 フランス留学中にマッチの製造技術を学んだ清水誠が東京で試作したのが始まりで、翌9年には新燧社を創設し量産化した。 その後、マッチ工業は立地条件の良い阪神地区を中心に、低賃金婦女子労働に依存し一大輸出産業となり、中国、インド市場を制覇した。 明治末から大正初年には、生糸、茶と並ぶ重要輸出品目で、スウェーデン、アメリカとともに日本は世界の三大マッチ生産国となった。 しかし第一次大戦ころから仕向地でマッチ工業が興り輸出は激減した。 国内向生産量も広告マッチの需要により昭和40年以降一時的に増えたものの安価な使い捨てライターの出現によりこれも亦激減した。

 マッチの商取引は、当初から総てマッチラベル(商標)によって行なわれ、製品の品質を表す重要な役割を果たしてきた。 明治9年10月26日第15号『家庭叢談』(『福澤諭吉全集』第19巻)の中に「商牌(トレードマーク)の事」と題する福澤先生の次の一文がある。 文中の「ブライヤント及びメー社」(Bryant & May)は、1843年創設のイギリスのマッチ会社である。

 此商牌の一件に付、日本の唐物商売人に悪る巧みと馬鹿らしさを一処に固めたる卑劣千万の所業あるを見出したり。 今其二、三を云はん乎。 第一番に摺附木(マッチ)の標記なり。 近来日本にも摺附木の製造起りて、舶来の品にも甚しく劣らざるものを製らへ出せり。 されども明から様に日本製たることを知らせては売れ口悪しとて、横文字にて龍動とかブライヤント及びメー社中など 記したる紙を箱の表に張付るあり。 或は偶々日本人の名を記したるものあるも絶へて日本文字を用ひず、製造主の名或は会社の号を横文字にて書き綴りたる故、 横文字の読めぬ人には其外国製と日本製との区別は付かぬことなり。 実は区別の付かぬこそ売手の方には便利なれと、客人の無智なるに付込で銭儲の一方便を考へ出したることならん。

 つづいて、第二第三には夫々石鹸と麦酒が取りあげられ、福澤先生は横文字ラベルを強い調子で非難している。

 明治17年に商標条例ができて、ラベルの商標登録が始まり、明治18年6月20日登録、第321号(マッチ商標登録の第一号) 「寝獅子」は瀧川辨三(清燧社)が出願したものである。 このデザインはスウェーデンマッチの柄のリボンの中の文字だけを自社名に差し換えたものである。 また同日登録、第322号(マッチ商標登録の第二号)「赤鷲」も同じく瀧川辨三が出願。 この商標も、米国のゲールボーデン社の鷲印ミルクの絵柄をセーフティマッチに置き替えたものというのが通説である。

 この瀧川辨三という人は嘉永4年長門生れ、明治4年京都に出て英学を修め明治13年神戸で清燧社を設立し、 マッチ製造を始め海外輸出に力を入れた。 明治から大正時代のマッチ業界を仕切り、「マッチ王」と称された。 神戸商業会議所会頭、貴族院議員をつとめ、晩年滝川中学を設立、大正14年75歳で没。 現在も販売されている桃印のマッチも瀧川の商標であり、これはオリジナルデザインである。

 唐物商売人ではないがマッチ業界の歴史は上記のようなことである。 明治以来の舶来信仰、とくに戦後はアメリカ一辺倒できたが、平成に入り欧米に対する憧れや劣等感がなくなったらしく、 欧米・アメリカなものは急速に売れなくなった。 やっと「客人が無智」でなくなったと云えるのかも知れない。


黒田 康敬
2008年07月23日
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