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■輸出マッチと兼松房治郎


 兼松房治郎は弘化2年(1845)5月21日、大阪の江の子島(大阪市西区)で、広間弥兵衛と八重の間に生まれた。 誕生直後、父広間弥兵衛は畳表買占めの嫌疑で出奔し、母八重の手で育てられた。 12歳で丁稚奉公に出、大阪・江戸で味噌屋、醤油小売、乾物問屋、蝋燭屋、米屋などを転々とした。
 文久2年(1862)18歳の時、学問修得のため、武家奉公を志し、足軽から歩兵となり、元治元年(1864)筑波の役(天狗党の乱)に出陣した。 このころ、親戚兼松家の養子となる。
 明治維新の頃、横浜で金巾・綿糸商売を始め、ついで神戸で石炭の仲次商、新潟で砂糖・綿・鉄などの商売を試み巨利を博した。 再び横浜で蚕卵紙商売に着手したが、普仏戦争のため大打撃をうけ、アメリカ人宣教師バラ−や 伊藤弥次郎(のち初代の農商務省鉱山局長)の下で英語の勉学に努めた。
 明治6年(1873)3月、伊藤の紹介で三井組に入り、同14年11月病のため退職したが、その時三井銀行大阪分店取締8等であった。 同17年4月、有限責任大阪商船会社(資本金120万円)を広瀬宰平・河原信可・伊庭貞剛らと創立、 同19年2月まで取締役運輸課主任をつとめた。また同21年11月、一時休刊していた『大阪日報』を 『大阪毎日新聞』と改題発行して、再建に努力した。 その間同20年には、将来を期待しうると考えた羊毛工業の原料調査のため、豪州シドニーに渡り、日豪貿易の将来を予見した。
 同22年(1889)8月15日、神戸市栄町に、ささやかな「日豪貿易兼松房治郎商店」を立ち上げた。 時に房治郎45歳であった。

 翌年4月にはシドニー支店を開設した。大阪の毛糸会社から最初の輸入注文を受け、 房治郎が競売で買い付けた羊毛187俵が日本に向けてシドニーを出港したのは、同23年(1890)5月22日のことであった。
 オーストラリアの羊毛と日本の需要を見越した房治郎には先見の明があった。 続いて羊毛の他に牛脂・牛皮などを輸入、日本からは、陶器・漆器・竹製品などを輸出した。 その中にマッチもあったことがマッチのラベルから窺える。

 「日の出富士」の商標(明治44年9月2日登録 第47955号)にはソールエゼント F.KANEMATSU.シドニーとある。 マッチのメイカーは公益社、公益社は井上貞治郎が明治13年に大阪の本田町でマッチの製造業を始めた名門で、 同19年からは専ら輸出に傾注し南洋・インドに販路を求めた。
 オーストラリアのマッチ市場は元来スウェーデンのヴァルカン社が得意とするところであった。 神戸市雲井通りに神戸支店を置いて海外市場を開拓した井上貞治郎と、 オーストラリア貿易に従事した兼松房治郎の商売が双方に利益をもたらしたものと思う。
 当時のマッチは生糸・お茶と並ぶ輸出品目でありながら、マッチの輸出は大部分が清商(華僑)の手によってなされていて、 日本の商社としては、三井物産が明治29年に直木政之介(直木燐寸社)の生産品を輸出したのが始まりであったからである。

 その後房治郎は従業員に持株制度を作るなど、オーストラリア貿易のパイオニアとしてだけでなく、 福利制度でも先駆的な人であった。
 このダイナミックな人生は、大正2年(1913)2月6日69歳で閉じた。
 法名 鉄心院堅翁宗固居士 神戸電鉄新開地から4つ目の鵯越駅から歩くこと40分、鵯越墓園つばき地区の入口からすぐの左手にねむる。 このつばき地区左手奥には同時代の「マッチ王」と云われた瀧川弁三の墓がある。

参考文献
 『日本近現代人名辞典』吉川弘文館発行
 オーストラリア大使館広報部ホームページ


黒田 康敬
2008年06月15日
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