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マッチラベル文庫
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マッチラベル あれこれ

 明治10年代初期、マッチの商取引きは、総てマッチラベル(商標)によって行なわれ、製品の品質を表わす重要な役割を果たしました。独創的なすばらしいラベルは、国外にまで販路を飛躍させ、国際的な信頼を得ることができました。反面、安価で粗悪な類似ラベルが模倣され、市場に混乱を招きました。そこで明治17年6月に「商標条例」が公布され、ラベルの商標登録がなされるようになりました。

 ここに収録したマッチメーカーは、明治14年設立の「清燧社」をはじめ、「良燧社」、「直木燐寸」、「東洋燐寸社」、「公益社」など多数にわたります。これらのマッチメーカーは、いずれも昭和2年に世界のマッチを支配していたスウェーデン資本の傘下となり、我国の市場の80%を占めていました。しかし、昭和7年にスウェーデンマッチ社は、事業に失敗し鮎川義介の「日産コンツェルン」に継承され、今日の「兼松日産農林」に引き継がれました。




「寝獅子」……明治18年6月20日登録、第321号、マッチ商標登録の第1号。
瀧川辯三による清燧社が、商標登録制度が施行された時に登録したもの。このラベルは、後に清燧社を合併した大同燐寸に書き替えられた時のものである。

「赤鷲」……明治18年6月20日登録、第322号、マッチ商標登録の第2号。瀧川辯三、清燧社。
「寝獅子」、「赤鷲」は、そのデザイン構成において群を抜き、一説に「赤鷲」は、米国のゲールボーデン社の鷲印ミルク商標をイーグルの文字をセーフティー・マッチに置き替えて使用したと言われている。

「象ベスト」……明治22年登録、宮内省献上マッチ。直木政之介、良燧社。
当時、黄紙に墨で猿を描き、赤の彩色を施した良燧社の猿印ラベルが海外で好評を博す中、黒ベタ白抜きの自らのサイン“M.NAOKI”を入れた斬新なデザインは、大評判となった。

「日光菊」……明治42年4月23日登録、日本燐寸製造(株)。
明治天皇に献上された第3回献上マッチである。明治年間に3回にわたって宮内省にマッチが献上されたが、ちなみに最初の献上マッチは、清水誠による「新燧社」の製品である。

「月琴」……明治33年5月21日登録、三井物産合名会社・直木燐寸社。
海外のマッチ市場を組織的に開発したのが、この両社である。
この「月琴」は、香港、上海、マニラ、カルカッタ市場を占有し、一つのラベルとしての輸出数量の更新記録を達成している。その後もフィリピンにおいて30年間にわたり絶対的な信用を維持してきたが、昭和5年に現地で模造品が出まわった。そのラベルは、「直木燐寸社」を合併し、「日本燐寸製造社」を傘下にした「大同燐寸」が現地より委嘱され日本で印刷していたことが判明、「三井物産」と「大同燐寸」の係争となり世間を騒がせた。
なお、この「月琴」は、現在でもフィリピンにおいて三井のマークを削除して販売されている。

「白桃」……明治25年登録、瀧川辯三、清燧社。
桃の絵柄は、この時代に数多く図案化され、中国では南蛮献上の伝説があり盛んに輸出されていた。
この「白桃」ラベルは、「大同燐寸」に合併されてからのもので、細軸燐寸と表示されている。従来の60本入りに対し、経済的な100本、120本入りの細軸マッチを考案し、中国市場の開拓のセールス・ポイントとした。
当時の中国では、十燈一軸と言われ、一本のマッチで10個のランプを燈し、その残り火でたばこの火を付けたと伝わっている。

「燕」……明治24年登録、良燧社。
このラベルは、南方への輸出向けとして、渡り鳥の意を以って考案され、「白桃」と同様に現在も関東、東海地域を中心に広く親しまれ販売している。


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